みなさんこんにちは
普賢唱道(ふげんしょうどう)です。
さて今日は荒行についてお話ししようと思います。
みなさんも知っていると思いますが、お釈迦様も悟りを開くために、断食をして座禅をし、瞑想に耽る修業を行いましたが、それは想像できない程の荒行だったと思います。
そして遂に体力の限界をきたし倒れていると、ある少女から乳粥をもらって悟りに至ったと言う言い伝えです。
そしてお釈迦様は荒行をしても悟りへの道にはならないと言っています。
それは悟りと言う事が、自分の経験値とはかけ離れた存在だからではないでしょうか。
色々な苦難を乗り越え、色々な辛い経験をしてくれば、精神的には強くもなるでしょうし、経験値も豊富になるでしょう。しかしそれが=(イコール)悟りになるのでしょうか?
それはただ単に自己満足に過ぎないのではないでしょうか?
その荒行が意味あるものならいいのですが、ただ漠然としたり。伝統だからと言った理由で行っても意味がない気がします。
お釈迦様も言っています、剃髪をするのも、経を読むのも、袈裟を着るのも、酒・肉を断つのも、荒行を行うのも、それは全て自分自身が理解や慈悲の心があって初めて意味あるものになると。
ただ単純に剃髪したり、荒行したり、酒・肉を断つのは、その行いの本当の意味を自分で思い、感じてこそ初めてできる行いであって、漠然とした気持ちで行っても何の意味も無いのです。
例えば昔はお百度参りと言うのがありましたが、まさしく荒行です。しかしそれは自分の身内や子供の為に、神様にお願いする為に自分を犠牲にして礼をつくした行為でした。
何も無いのにお百度参りする人はいないでしょう。
また何の成果も得られないのではないでしょうか。
しかし荒行は肉体的にも、精神的にも強くなれる事は確かです。それは脳のドーパミンが荒行を達成した時出るのと同時に、心地よい達成感が得られるのです。
そしてその味をまた求めると言う事になるのです。
結論を述べますと、荒行=悟りへの道ではなく、精神的な強さへのトレーニングだと言う事ではないでしょうか。そして現代人にはそのトレーニングも必要かもしれませんね。
合掌
運命はあなたの行動によって決まります。